幼い頃の思い出を大切に持ち続けている林千絵さんが 
心に残る情景を文と絵でつづった
わいアートウェブにて連載のコラム
「しおさい日記」が
限定版画集になりました。


版画集の紹介動画です。





 


私のこころの中のちいさな箱には
色々な記憶がごちゃまぜに詰め込まれていて、
ふとした時にふわりと記憶の底から浮かんでは
また沈んでいきます。

今回はそんな淡い綿菓子のような想い出を
いくつかたぐり寄せて6つの版画にし、
短い文章をつけて
「しおさい日記」としてまとめてみました。

林 千絵

 



 


林 千絵「しおさい日記」に寄せて


 しおさい。潮騒。満ち潮が始まる時間は、逢魔が時。そんな時にロマンスを想う人は果たしてどのくらい居るのだろうか?であるけれども、潮騒の時は、その不穏さと同時に、波と共に不思議と生命が満ち始める時でもあると思う。

 潮騒の尖って弾けた、ザザン……ザザン……、という波の音は、忍び寄る夕闇と共に何かをそっと覆い隠し、何かをそっと、代わりに置いてゆく。私は、そんな潮騒の時が、たまらなく好きだ。それはとても不穏で、とても、自由だから。
やわらかく優しく、尖って血が出るほど狂気的。そんなアンビバレンスが、林千絵さんの作品には、潮騒のように内包されている。その夢幻的な情景は、見方によっては悪夢になり、またある時は、眠りを幸福な体験にする、素敵な夢の因子になる。こういうアンビバレンスは彼女の世界にとっては対照的なものではなくて、互いに融合しつつ、同居している。

 彼女の版画は、作品によっては手彩色で綺麗に彩られる。けれども、色は常に一定ではなくて、その時その時で如何様にも色が変化する。つまり、手彩色の色がその時その時で変わる。その異端な表現を素直に受け入れ、自由に心を遊ばせてくれる広さを、彼女の作品は見せてくれる。きっと彼女の前では、目の前に顕われた悪魔も、どこかとぼけた天使に見えてしまうのだろう、と思う。『しおさい日記』第四話の、『どろぼうの話』を読んでみてほしい。凶悪な強盗が、どこかやさしげな「人」に見えてしまう。

 輪郭のおぼつかない、誰かの夢を辿るような水彩画も同じように、潮騒の音や匂いを感じる。願わくは、この自由な画家の作品を、理屈ではなくて自分の心と遊ばせて、夢幻的な自由をたっぷりと楽しんでもらいたいと、願って止まない。




Yanagihara Sho
伊豫田晃一、高松ヨク 三塩佳晴ほか多くの個性的な現代美術のコレクターで詩人

 


ワイアートにて連載の林千絵コラム
「しおさい日記」の
木口版画集を制作いたしました。
20部の限定販売です。


しおさい日記 版画集
第1話から第6話


詩のような文章の横に、木口木版作品をはりこんだ
シート6点限定セット。
保存用無酸紙ケース、額縁1点付
(額サイズ32×26cm)

88,000円(税込)


版画集のお求めは
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額装アップ







しおさい日記額装

中央で折って額縁にセットして
飾っていただける仕様になっております。

(額サイズ32×26cm)



しおさい日記シート用箱

保存用 無酸紙ケース




しおさい日記奥付


作品
林千絵のコラム しおさい日記

第1話 「潮騒」

私が父の都合で川崎から茅ヶ崎の海辺の家に引っ越してきたのは13歳の夏でした。
その頃まだ茅ヶ崎は古い木造の駅舎で高い建物も無く、
海から吹く風に乗って濃い潮の香りが町中に漂っていました。
生まれ育った町を離れて初めて駅に降り立ち、その荒々しい潮の香りを吸い込んだ途端に
「ああ、随分遠くに来てしまった」という不安でいっぱいになったことを覚えています。

転校した中学は海のすぐそばにあったので、三階の教室の南側の窓の席からはよく海が見えました。
学校では「海側の席に座ると成績が落ちる」というジンクスが囁かれていましたが、それもそのはず、海は刻々と姿を変え、何時間見ていても飽きることがありません。
冬の晴れた日の澄んだ青、プランクトンの異常発生で出現する赤く澱んだ潮、風の強い日に立つ三角の白波。
朝と夕方、太陽の位置ですっかり様変わりする海の色。
私は席替えのたびに「海側の席になりますように」と心の中で念じていました。
そして窓側の席になると授業そっちのけでぼーっと海を眺めては、その海の底に潜んでいるもの…奇怪な風貌をした深海魚や美しい貝殻たち…に想いを巡らせるのでした。

閉塞感のある学校生活をなんとかやり過ごせたのは、
ひとえに窓から見えた海のお陰かもしれないと今でも思うのです。



潮騒



 
散歩

第2話 「散歩」

 わたしは制作が一段落すると、よく海に散歩に行きます。日の傾きかけた浜辺ではいつも、いろいろな人が好きなように時間を過ごしています。
 
犬を連れて散歩するご婦人、サッカーをしている少年、波乗り後のサーファー・・・
たまにその人たちに混じってちょっと風変わりな人を見かけることがあります。
 
去年の春の夕方のこと。制作後、気持ちの良い風を浴びながら海沿いの道を歩いていると
小太りのぶち猫が一匹、前を歩いていることに気がつきました。

ここ一帯の防砂林にはたくさんの野良猫が住み着いていているので
その猫もその中の一匹だろうと思い、
「かわいいね、こちらにおいで」としゃがみ込んで声をかけました。
すると猫は怯えたように立ち止まり「え、なにこの人馴れ馴れしいわ」という迷惑そうな表情をしたかと思うと前を歩いている男性の方に向かって助けを求めるように「にゃあ」と鳴きました。すると前を歩いていた男性は立ち止まってくるりと振り向くと、じろりとわたしを睨みつけ「ほら、タマ、行くぞ」とボソッと言いました。すると猫はまるで夫に付き従う妻のようにタタタ、と男性のそばに行き、二人で仲良く歩いて行ってしまったのです。(首にリードがつけられているわけでもありません)わたしは呆気に取られたまま、仲良く並んで歩いていく二人の後ろ姿をいつまでも見つめていました。
 
猫って一緒に散歩できるんだ……
 
それはわたしの「猫は人間の言うことなどきかない高貴で自由な存在だ」と言う常識を覆す衝撃的なできごとでした。
 
それ以来わたしも折に触れうちの猫に「ほら、梅、こちらにおいで」などと声をかけてみますが、彼女はいつも面倒くさそうに薄目を開けるばかりで微動だにしません。
 
 
散歩

 

 

 
虹

第3話 「虹の在り処」
 
 
最近は温暖化の影響なのか、突然の激しい雨や雷が多くなったように思います。
 
今年の夏も昼間、炎天にさっと雲がかかったと思うと急に雨が降り、そのあと空に大きな虹がかかりました。青い空に薄くにじむ七色の光。その光を見つめながら私は幼いころのある光景を思い出していました。
 
小学一年生くらいの頃だったでしょうか、夕立のあと空にかかった虹を見ていた私はふと
「虹のはじまるところに立ってみたい」と思ったのです。
 
「虹はどこから生えているんだろう?」「光は温かいのか、それとも冷たいのかな?」「虹の上に乗って渡ることはできるのかしら?」
 
七色の光に包まれてうっとりする自分を想像し、いてもたってもいられなくなった私は突然虹の見える方角へと走り出しました。
 
虹が消えてしまわないうちに早く、早く、もっと早く。
 
虹のはじまるところに向かって私は懸命に走り続けました。しかし虹はみるみるうちに薄くなり跡形もなく消えてしまいました。その時の絶望感と言ったら…
 
しょんぼりと肩を落として歩きながら私は「次はもっと早く走ろう」と心の中でつぶやいていました。
 
それ以来私は虹を見ると走り出すようになりました。でもどんなに頑張って走っても虹は私に近づくことを許さず、あっという間に消えてしまいました。
 
あれから長い月日がたち、大人になった私は虹を見ても走ることはなくなりました。しかし今でも虹を見ると、あの夏の日息を切らせて走っていた自分の心臓の音がトクトクと耳によみがえるのです。
 
虹の在り処

 

 


しおさい日記4


第4話 「どろぼうの窓」
 
中学生になるまで築100年の古い木造の家に住んでいました。
それだけ年月を経た家はさすがに建付けも悪く、木枯らしが吹く季節になるとあちらこちらからすきま風が吹き込みふるえるほどの寒さ、そのおかげで冬になると私の手足はしもやけで真っ赤になっていました。
 
なかでも縁側に続く大きなガラスの入った引き戸には鍵のまわりに大きなひびがあり、簡易的にセロテープで補修してあったのですが、風の強い日などはその隙間からピューピューと音を立てて風が流れ込んできました。
 
祖母によるとそのひびは昔泥棒一味に押し入られたときの跡だということで、ガラスが特注の高価なものだった為なかなか直すこともできず、セロテープを貼って間に合わせたままなんとなくそのままになってしまっているようでした。
 
今思えばずいぶん不用心なことですが、当時の防犯意識は今よりずっと低かったように思います。(うちの家族が皆適当な性格だっただけかもしれませんね…)
 
私は祖母からその泥棒に入られたときの話を聞くのが大好きでした。
押し入った泥棒は「銀次」という親分が率いる一味で、仲間の一人の頬に大きな三日月のような刀傷があったとか、大人は皆紐でぐるぐる巻きに縛られてしまったとか、その時の様子を何度もねだっては聞いていました。
 
なかでも一番好きだったのは、時計に履物、靴と家の中のものを洗いざらい持っていこうとする泥棒に、祖母が声を震わせながら「後生だから子供が明日学校に着ていく服だけは残してくださいな」
と頼むと、ちゃんと子供の服だけは残していってくれたというくだりでした。
 
普段は物静かな祖母の母としての気丈なふるまいと泥棒が見せた人情。犯罪ではあるけれどもそこには人間らしいドラマがありました。
 
今でも木枯らしの吹く季節にふとあのひび割れたガラス戸を思い出すとき、瞼の裏で泥棒の頬の傷がピカピカと三日月のように光ります。

 
どろぼうの窓





 

林千絵木口木版画作品

第5話 「公園の木の下には」
 
小さい頃住んでいた家の裏には広い公園があって、
桜やブナ、楠などの大ぶりの木がたくさん植えられていました。
私は雨の日以外はほとんど毎日その公園へ行き、よい枝ぶりの木を見つけては登り、
腰かけて長い時間をそこで過ごしました。

 
 
枝に腰掛けながら上を見上げると、晴れた日は明るい陽の光が葉と葉のあいだでチカチカと砕けては降り注ぎ、通り過ぎる風に揺らされた枝や葉のささやきが聞こえました。
 
 
「おかあさんから生まれるずっと前のことを思い出してしまいそうだな」
 
 
その音を聞いているといつも懐かしいような怖いような気持ちになってそんなことを思うのでした。
 
 
たくさんある木のなかでも私の一番のお気に入りは大きな楠で、その根元には大切な宝物―石ころや鳥の羽根、どんぐり、猫のひげ、などを埋めて隠していました。なぜ大切なものを埋めてしまったのか今では少し不思議に思いますが、自分だけの「ひみつ」にすることで、宝物たちは暗い土の中で星のようにキラキラと輝きはじめました。
 
 
この話をすると大抵の大人は「実は自分も同じようなことをしていた」と告白し出すのです。
 
 
世界中の公園の木の根元には子供たちの宝物が埋まっているのかもしれませんね。

 
公園の木の下には




 

林千絵 木版画 夢の汀


第5話 「夢の汀」
 
幼い頃というのはまだ魂があやふやな場所ーこの世とあの世の境目あたりにあるのでしょうか、妖精や幽霊のようなものが見える子供は案外多いそうです。
そういった現象に「イマジナリーフレンド」という言葉もつけられているようで、
かく言う私も中学生になるまである不思議なものが見えていました。
 
夜寝る時に布団の中に入りじっと部屋の隅の暗闇に目を凝らします。
すると暗がりの中から極彩色の模様―曼荼羅のような円形や幾何学模様が現れて、
クルクルと高速で回転しながら目の前を近づいたり遠ざかったりしているのが見えました。パチパチとまばたきをすると模様の色も変わります。
「次はどんな模様になるのかしら」と、その回転する模様を楽しく眺めながら眠りにつくのが常でした。
 
私はその時間を「暗闇遊び」と名付けて、寝る前のごく自然な儀式として受け入れていました。
 
一度母に打ち明けたことがあるのですが、夢みがちな子供の空想と思われたようでまともに取り合ってもらえません。皆見えるものと思っていた私はとてもショックを受け、それ以来誰かに話すこともなく「暗闇遊び」は自分だけの秘密の遊びになっていました。
 
大人になってその出来事もすっかり過去の記憶になっていたのですが、
最近ふとS N Sでこのことを書いたら、たくさんの方から「自分も同じようなものが見えていた」とメッセージをもらいました。
 
あの不思議な体験をしていた子供が他にもいたなんて!
私は分かり合えたことが嬉しくて興奮しました。
とはいえ暗闇に見えたあの回転する模様が一体何だったのかはいまだに謎です。
もし小さな子供がぼんやり空を見つめていたらその瞳にはなにか素敵なものが映っているのかもしれませんね。


 
夢の汀

 
しおさい日記 版画集
第1話から第6話


詩のような文章の横に、木口木版作品をはりこんだ
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(額サイズ32×26cm)

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