小池結衣のコラム 「ぶれる日々」第四話


小池結衣のコラム

「ぶれる日々」

 



ぶれず迷わず潔い。

若い時はこれがかっこよかった。

しかしこれは時に、

反省しない、視野が狭い、思考停止、を意味する。

ぶれて迷って往生際悪く生きるのも悪くない。

 




第4回 

「竹森さん（2）」




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「行先」


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第4回 　
「竹森さん（2）」   

今回は「竹森さん（1）」の続き（後編）です。前回のコラムはこちら
 

「とんとん、小池さん。」翌日カーテンの外から竹森さんは言った。「果物一緒に食べませんか？」昨日のお礼らしい。きれいに切られたキウイやりんごが密閉容器いっぱい詰められている。抗がん剤を受けると免疫が下がるので、切って時間の経った果物は食べてはいけない。竹森さんは忘れているのか。言うべきだが、密閉容器に詰まっているのは今日も電動カートで片道40分かけて来た夫の愛情。夫が病弱でよくケンカになったが、自分が病気をしてみればその気持ちが理解でき、近頃仲が良いその夫。

結局何も言えず。一緒に果物を食べながら、当然病気の話になる。

頑張れと言われたくない。頑張りたくもない治療を頑張らされ、そこへ重ねて「頑張れ」。「生きてるだけで儲けもの」も同様。どうやって死のうか、そればかり考える。

「生きてるだけで儲けもの」。健康な時なら、私自身言っていたかもしれない。人は必ず死ぬのだから、健康な私も今日事故で死ぬかもしれないのだから。

そう言ったなら、相手は黙り、説得できたと思ったかもしれない。しかしそれは、言っても無駄だと見放されたのである。

人は誰でも死ぬと病人に教えたがる人間は多いが、それを忘れている病人はあまりいない。死が抽象でしかない健康な自分と、それが具体的に目前にある病人とは、死の概念が全く違う。ほんとうは、健康な自分こそ、そのことに気が付くべきだった。

治る病気でもつらい治療が、竹森さんの場合功を奏していない。もう歩行も困難で、地階の放射線治療には車椅子で運ばれる。排尿も自力で出来ない。医療麻薬も処方されている。加入していた簡易保険を、退職時に解約したら病気が見つかった。もともと保険に加入していなかった私より、よほど悔しいだろう。

――悟りといふ事は如何(いか)なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた。――正岡子規「病牀六尺」より

この状況で生きてるだけで儲けものなどと平然としていられるなら、それが悟りでなくて何であろう。他人の痛みは何年でも耐えられる。死が他人事の悟ってもいない人間が、病人に向かって悟れと言うなら、それは相手の苦痛を他人事としか捉えていないことの露呈でしかない。

治療が効かないまま、竹森さんの退院が決まる。退院を前に、また竹森さんはもめていた。
竹森さんは、尿道のカテーテルから尿バッグに排出している。退院後は4時間おきに自分でカテーテルを通して排尿する。その練習のとき看護師が不親切であったらしい。

放射線で荒れた局部に、痛くて不快なカテーテルの挿入。それなのに看護師から、急かされ粗雑に扱われていると感じて辛かった。詫びる看護師を前に、竹森さんは泣いていた。

入院中は、看護師が世話を焼いてくれる。掃除も食事の用意も不要、清潔で空調完備。けれども退院後は現実の生活が待つ。私は、寒い段差だらけの木造和式便所の自宅で凍えながら4時間ごとにカテーテルを通す自分を想像して血の気が引いてゆく。

退院の朝。「『頑張れ』はもうええわ。」竹森さんは言った。そんな無責任なこと言えるわけがない。「ちょっとでも、お元気で…」それしか言えなかった。


（版画作品と文　小池結衣）

 


 

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