小池結衣のコラム　「ぶれる日々」　第13話

小池結衣のコラム

「ぶれる日々」

ぶれず迷わず潔い。

若い時はこれがかっこよかった。

しかしこれは時に、

反省しない、視野が狭い、思考停止、を意味する。

ぶれて迷って往生際悪く生きるのも悪くない。

第13回

「まぼろし」

小池結衣　車輪

「車輪」

メゾチント

イメージサイズ 175×145mm

ed.30 　2025年
シート税込￥16,500

こちらをクリックで
作品をお求めいただけます。

第13回

「まぼろし」

以前、自転車でよく通った道に、さびれた事務所のような建物がありました。通り過ぎる一瞬、薄暗いその奥の壁に簡素な額がかかっているのが見えるのでした。何が描かれているかまでは見えないものの、黒い画面に白いグラデーションで何か美しいものが描かれていました。遠くから一瞬目にするだけで、メゾチントを始めて間もない私にはわかりました。あのグラデーションはメゾチントに違いないのです。何が描かれているのだろう、その一瞬の残像にさまざま想像を膨らませ、けれど戻ってもう一度見るということもしないままそのことを忘れてしまい、通りかかる度にその一瞬のメゾチントを見てあれこれ思いめぐらせ、そしてまた忘れるのが常でした。ある日、額が手前に移動していて、その絵を見ることができたのです。その「絵」は、空の額とマットでした。マットの下に黒い紙が挟まれていたので、ガラスが部屋の中のものをぼんやり映していたのです。

ある夜、乗り換えの電車を待っている間、近くのマンションの窓をぼんやり見ていました。ワンルームマンションらしい、その一つの暗い窓から色とりどりの光がもれているのに気が付きました。一つの色が光る時間の長さはまちまちで、黄色からゆっくり赤に変わったり、そうかと思えばパッと切り替わったり、よくあるイルミネーションの規則的な動きではないので、きっとおしゃれな雑貨やさんや美術館の売店などに売られている、芸術的な光のオブジェなのだと思います。本体はどんな姿をしているのでしょう。素敵だな、と思いました。何かの役に立つわけではないけれども、心の余裕、遊びのようなもの、ゆったりと丁寧に暮らす、その部屋の住人は、ワンルームであってもそのような時間を大切にしている方なのでしょう。ある晩歩きながら、別の場所で同じ「オブジェ」が稼働しているのを見つけ、もしかしてあのオブジェはすごく流行っているのか、それとも…そこでやっとそれがテレビの光だと気が付きました。私はテレビを持っていません。嫌いなのです。

――私はお前にこんなものをやろうと思う。

一つはゼリーだ。ちょっとした人の足音にさえいくつもの波紋が起り、風が吹いて来ると漣をたてる。色は海の青色で――御覧そのなかをいくつも魚が泳いでいる。(中略)

この二つをお前にあげる。まだ出来あがらないから待っているがいい。そしてつまらない時には、ふっと思い出して見るがいい。きっと愉快になるから――梶井基次郎「城のある町にて」より

知人の4歳の娘さんがうちに来たことがありました。ご飯どきになり、彼女が「すぱげちー食べる」と言ったので、ありあわせのものでスパゲティを作りました。抽斗の奧に1本だけ子供用のフォークがあったのでそれを渡すと「これ何て書いてあるの？」と聞かれました。ちびまる子ちゃんの文字が印刷されていたのですが、古いものなのですっかり剥がれてしまい、痕跡だけがうっすら残っているのでした。「ちびまる子ちゃん、知ってる？」と聞くと彼女は頷いて、フォークを両手で持ち一生懸命文字をたどっていました。私は「全部剥げてるけどね」と喉まで出かかった言葉を飲み込みました。きれいに剥げてキャラクターの意味がなくなっても、彼女にはちびまる子ちゃんが見えるのです。

空の額が、美しいメゾチント。嫌いなテレビも、おしゃれな光のオブジェ。読めなくても、ちびまる子ちゃんのフォーク。見間違いでも、勘違いでも、失われていても。この世は幻に満ちていて、時には幻のまま、そっとしておいてあげてもいいのかもしれません。　

（版画作品と文. 小池結衣）

小池結衣コラム第1回はこちら
↓